京都市内でも、電動車椅子の数が増えたように感じる。カラフルな個人の車椅子が、人混みの喧騒に混じって行き来するのをよく目にする。
地下鉄やバスなどの交通機関も、円滑に利用できているようだ。
ただ、気になるのは道が意外と整備されていない箇所が多く、時々車椅子利用者が慎重になっている場面も見かける。
たとえば、横断歩道の真ん中あたりがひび割れていたり、狭い道が、極端に横に傾いていたりする。
勿論、障がい者中心にすべて作るわけにはいかないし、市の予算も限られている。限られた制約の中で、生活を送る必要があるのは、皆同じだ。
何気ない街なかの風景も、障がい者目線に立ってみると、違った見え方になる。昔みたいな手押しの車椅子ならしんどかっただろう。人の目線も気になる。
社会が進化するにつれ、障がい者やLGBTへの理解が深まり、不当な差別や偏見は、減ってきたかのように見える。
同様に、テクノロジーの進化に伴い、外出移動の自由へのハードルも低くなりつつある。
しかし、何かモヤモヤ感は残らないだろうか。社会やメディアも、両手を挙げて、「昔と比べて今の世界は良くなった」というお祭りムードになっていない。
いまだ、世界では戦争が絶えないし、景気の先行きも不透明だ。政治も何がしたいのか、よく分からない。福祉も、介護報酬は上がらないし、人材もいない。
いわば、こういうゴールが達成できたら幸せといった、明確な着地点がないのだ。だからつい、ネガティブな部分に目を向きがちになる。
理想とする幸福感というのは、幻想にすぎないのかもしれない。
だからこそ、自由に車椅子で外出できるということ、それは障がい者目線で見たら、至高の幸福かもしれない。
幸福には、道と同じく傾斜や欠陥がともなうこともあるだろう、しかしながら、それを体験できることも、一つの幸せだ。
漢字の「辛い」に、横棒を一本足してみよう。たった一本のエッセンスで、「幸せ」につながるのだ。
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