よく、人は死ぬまでにやりたいことを生前に述べる。
介護ケアで、高齢者と接していると、なおさら身近に感じるのだ。
無論、死んでから後のことは、自分の肉体は存在しないわけで、死後の世界や死後の意識が保証されているわけではない。
だれも、自分の代わりとしてそのまま生きてくれはしないため、現世の自分が行動と願望の責任
をとるしかないのだ。
やりたいことリストを、つくっている高齢者もいる。
たとえば、海外旅行をしてみたい、コンサートやスポーツ観戦にいきたい、若い頃できなかったことに挑戦してみたい、永いこと会えてなかった人に会いたいなど色々だ。
死というゴールから逆算して、いまできることをやる。この哲学的な行動は、人間や、動物界・自然界の真理なのかもしれない。
たとえ、どれだけAIが発達し、自分のクローンができたとしても、いまの自分は世界に唯一の真実なのだ。
死からは、どうあっても逃れられない。
悲しい、痛い、苦しいというイメージが先行してはいるが、本来は、人間の生誕と同じく、自然なライフイベントの一つに過ぎないのかもしれない。
あきらめるというか、そういうものだと、割り切ってみる。
人間が、死ぬ前に最も後悔することは、やってしまったことより、自分の意志でやれたかもしれないのにやれなかったことだ。
来世まで、この悔しさは持ち越せないのだ。
だとしたら、「やりたい」という願望で終わるより、
「やるべき」としてみてはどうか。
義務感や使命感を持つことで、いまの自分の残された人生が輝きを帯びてこないだろうか。
死が待っているかぎり、明るい未来は難しいが、いまの自分を明るく照らすことはできやしないか。
やらない死より、やる生を。願望で終わらず、義務と使命を帯びた行動の咆哮をあげてみる。意外と、できたりするものだ。
人々の魂に生きる聖火を灯せる協力を、介護を通じても実現していければと思う。