先日、某デパートの洋服店の前を通りがかった時の話だ。綺麗な身なりの、車椅子に乗った一人の若い男性が、紳士服コーナーに入り、洋服を選んでいる様子を目にした。
店内はよく整理され、車椅子が通れるスペースもあるし、段差もない。洋服が置いてある棚も高くなく、気軽に手に取ることができるようであった。
何気ない光景なのだが、ふと、もし自分なら、このように悠々と車椅子で衣類の買い物を楽しめるのか、と疑問にも思った。
なぜなら、車椅子で長期間、生活した経験がないからだ。特に後天的な事故などで両足が動かないなどの障がいを負ってしまった場合、自身の境遇や世を恨んで外に出るのも億劫になってしまうかもしれない。
健常者である自分が、障がい者のケアをする上では、想像力に頼る部分がある。厳密には共感力とも言えるが、果たして自分が車椅子生活をしたことがないのに、共感できるのか、という疑念もある。
実際、自分が障がいを負ってから気づくことは山ほどあるだろう。
逆に、想像力の欠如したケアほど危険なものもない。勝手な介護観・倫理観の押し付けは、ただのエゴでしかない。
自分が目にする、もしくは目にしていたかもしれない車椅子上での世界は、どんな世界だろう。車椅子のタイヤのゴムの感覚から翔び立ち、棚から手に取り、肌に触れたその洋服の繊維感覚はどんな心地だろう。そこには小さな喜びがあり、絶望に束縛されていた自分の心を開放してくれるかもしれない。
アパレル以外にも、健常者の立場からは見たことのない全く新しい世界や眺望が広がり、新たな発見や楽しみもたくさんあるかもしれない。
後天的に障がいを負ってしまった人たちは、最初は絶望するも、いつしか自分の現状を受け入れ、乗り越えていく瞬間があるときく。
想像を超えた遥か先にある新しい世界には、決して絶望のみがあるのではなく、まだ生命はあり、人生が続く現実が存在する。
現実を全てポジティブに生きるのは容易ではないが、日常に潜む小さな喜びを、健常者・障がい者かかわらず、蓄積させていくのが、楽しく生きていく秘訣かもしれない。