グローバリズム全盛の現在、京都も外国人観光客が増えた。観光客だけでなく、たとえば飲食店などサービス業の店員が、外国人であることにも、
見慣れてきた。
たどたどしい日本語で接客し、時々、こちらの話す日本語も通じない時もあるが、逆に日本人の店員より丁寧な時もある。
これは、国籍如何にかかわらず、仕事や業務においては、個人の資質も問われるということだ。
サービス業などでは、大体マニュアル化されており、業務を覚えられれば、誰でもこなせるようになるのかもしれない。
ただ、医療福祉の分野では、外国人職員導入には、意見が分かれる。そもそも、日本そのものが、受け入れ自体に慣れていないのだ。
無論、アメリカなど多民族国家では、病院のスタッフが多国籍なのはザラにある。
つまりは、文化的背景がそもそも日本は欧米とはちがうのだ。
ただ、少子化や人材不足もあいまって、外国人職員が増えている福祉施設もある。施設利用者も、最初は外国人がケアすることに抵抗があったりしたそうだが、次第に受け入れ、満足している例も多いときく。
外国人だと、かつて高齢者が生きてきたこの国の歴史や慣れ親しんだ童謡や、日本の風習には馴染がないであろう。
さらに、対人ケアは、人の生命を扱うため、利用者の体調変化や緊急時などに的確に日本語で他職員に情報を伝える能力も必要だ。
しかしながら、利用者も、職員に対しては人間性で見る人も多いのも事実だ。
外国人介護士を導入すること以上に、受け入れる立場である、日本人側の態度が問われる時代だ。
少子化や人材不足は、変わらず進行し、もはや止められないのであれば、何かは対策を立てない限りはこの問題に終わりはないのだ。
これらも、数ある対策の一つとして受け入れるべきなのか、否か。
明確な答えはしばらくは出ないであろう。
歴史をみると、医療福祉の概念や、制度のシステム、医療福祉の技術理論など、もともとは外国を参考に、日本が外国から輸入してきたものも、多いのだ。
それが、外国から人をも受け入れる時代にもなってきたこと。賛否以上に、事実として、日本が刻印せねばならない時代になったのだと沁み沁み思う。