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介護疲れから見る社会構造の問題

障がいを持つ子供や、高齢の親の命を、介護疲れから親族が絶ってしまう事件が、京都でも時折報道されるようになっている。


無論、これまで何件も昔から起きていたであろうが、一向に改善しゼロに向かう兆しはないように感じる。報道された事件は氷山の一角で、まだまだ予防対策も不十分ではないか。


事件が起こると、「なぜ、周りは気づいてあげられなかったのか」「容疑者も、なぜ役所や行政に助けを求めなかったのか」といった疑問が、お題目のように唱えられる。


しかし、これらは当事者にしてみれば、愚問ではないだろうか。介護疲れの問題は、メンタルがやられてしまい、正常な判断ができないことが多い。

役所や行政に助けを求めにいくにも、どう訴えたらよいか複雑でわかりにくいし、日々の家事や生活維持で目一杯ではないだろうか。


また、役所も夜間土日や年末年始は休みとなり、タイミングが合わなければ相談もしにくくなる。役所の担当者も、地域全ての世帯の状況を完璧に把握し、対策するなど、土台無理な話だ。そもそも、人的資源が足りていないのではないか。


昭和においては、地域で異変を察知し助け合うという土着の文化があった。いわゆる「村社会」のメリットとも言える。


反面、現代においては、社会保障制度は進歩しているが、「無縁社会」も比例するかのように加速している。事件が発覚した後も、容疑者のマンションの隣人も状況を全く認知してなかったケースもある。


こういった介護疲れからくる問題は、もはや現代

の社会構造そのものに罪があると言わざるを得ない。

容疑者の家庭だけでなく、社会構造そのものに、全体的に余裕がない。

皆、自分のことで手一杯で、他者に関心を向ける余地がない。

余裕の欠落した社会システムの構造は、砂上の楼閣である。


訪問介護は、福祉サービスを通じて、微細ながら他者の家庭に踏み込むことができる。

少しでも、余裕を創造し、分配できる手助けになればよいと切に願う。


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