「悪貨は良貨を駆逐する」
とは、ひとつの皮肉であり教育だと、しみじみ感じる。
オレオレ詐欺などで、高齢者をだましても百万円。
介護事業で、高齢者を喜ばせても百万円。
どちらも、同じ貨幣価値なわけだ。
周りの人間から見ても、その札束が、どのようにして生み出されたのかは、わからない。
金額は、結果なわけだ。ただ、その結果をつくる過程が違う。
この場合、一般的には、過程が大事だ。その過程に、正義はあるか。大義はあるか。自分の信念に背いていないか。
先日、関西地区で、福祉事業を営む会社が、反社とつながりがあり、事件を起こして逮捕者が出たというニュースを見た。
事業を継続するには、資金が必要だ。資金が無くなるキャッシュアウトの状態にならないように、それぞれの事業所は試行錯誤している。
ただ、そこには、人間の性善説に基づいた、正しい資本主義社会を渡るためのルールがある。
とにかく、したたかに、結果さえ出せればよいと、突っ走ってしまうと、人は道を踏み外してしまう。
結果も過程も、確固としたバランスが必要だ。
事業を営むには、金が必要だが、そこで働く者は、金に使われてはいけない。
金の稼ぎ方、使い方にこそ、人間の品性が表れる。
そして、金に生命を与えること。
悪いことをして得た金は、空虚な存在だ。
生かすも滅ぼすも、扱う者次第だ。
介護事業は、営む者、そこで働く者には、大きなストレスがかかる。
売り上げノルマや過酷な現場仕事に攻め立てられ、疲弊し、不平不満だらけで生み出したお金は、果たしてどのような意味を持つであろうか。
逆に、品性に溢れ、楽しく金を稼げるような、雰囲気づくりができれば、強いと感じる。
俗欲にまみれていない、すべての「良貨」は、良き福祉事業への道に通づるのではないだろうか。